プロフィール

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はじめまして、「よめばつくれちゃうかも?自動二輪」を書いている、fukumomo3_Photo(@fukumomo3_HP)です。

 これまで、様々なバイクや車と出会ってきました。その経験から得た知識やノウハウを、このブログに記載しています。DIYで愛車をカスタマイズしたり、愛犬と裏山ツーリングに出かけたり、雪道の峠をジャイロで登ったりしているこのブログから、あなたのガレージライフを充実させるためのヒントがきっと見つかるはずです。

タカラ塗料【第6回】刷毛塗り全塗装 カーメイクアップコンテスト2022 バイク賞を受賞

ジャイロXの画像

2022年に、タカラ塗料さんで開催された【第6回】刷毛塗り全塗装 カーメイクアップコンテスト2022 で我が家のメインバイク・ジャイロXがバイク賞を受賞しました。

バイク賞 新潟県 fukumomo3_Photo様
※出典元:タカラ塗料 https://brush-carpaint.com/

タカラ塗料さんに紹介してもらった相棒達

他にも、タカラ塗料さんのホームページに、私に好き勝手塗られた相棒が紹介されています。

【2008 HONDA ジャイロX スタンダード】

【2006 ダイハツ TE-S210P】

その他にも多数、私に好き勝手塗られた車やバイク以外にも自作カヌーやガレージなどがありますが、それは、また違うブログで紹介します。

私の相棒達の紹介

私の相棒達
  1. 1982 BMW r100rs
  2. 2006 ダイハツ TE-S210P
  3. 1969 HONDA SuperCub C70
  4. 1974 HONDA バイアルス TL125 K2
  5. 1982? ITALJET イタルジェットクラス
  6. 2008 HONDA ジャイロX スタンダード
  7. 1972 YAMAHA YAMAHA MINI GT50
  8. 1990 HONDA XLR250BAJA セル仕様
  9. 2014 HONDA N-ONE Premium Tourer
  10. 1982 日英自動車 MINI COOPER S MK-Ⅲ仕様
  11. 1965 富士重工業 ラビットスーパーフローS-301BH

 気づけば、いつの間にか11台のバイクと車が我が家に。まるで、猫好きさんがたくさんの猫に囲まれているように、機械への愛が深まるにつれ、自然と集まりました。そんな私のガレージライフの体験を包み隠さずお伝えします。愛車との出会いや整備の記録など、あなたのガレージライフのヒントになる情報が満載です。一緒にガレージライフを楽しみませんか?

ここからは、私、fukumomo3_Photoの55歳までの人生を紹介させていただきます。お時間のあるときにでも読んでいただけると幸いです。

3分で読めるので、読んでやってください!

港のゼロヨン

16歳から社会人スタートした。一番最初勤めたのは、電装関係の車の整備工場だった。なぜ、転職したのか記憶はないが、3ヶ月で辞めた。きっと、車のエンジンが分解したかったとか、そんなとこだろう。次に勤めたのは、中古車販売系の整備工場である。ここでは、良い先輩に出会いいろいろ学ばせてもらった。港のゼロヨンとか、ダムの外周レースである。18歳で普通免許取って一番最初に買った車は、S30Z。当時は、ハコスカとかZなんて普通に数十まんで個人売買されていた。しかし、いくらで買ったかは覚えがない。きっと、ボロボロのを20万ぐらいか?最後はどこで誰に譲ったかも覚えがない。車やバイクの話を書き出すとキリがないので、ここまでにする。

結局次の就職先でも、中古車屋の整備工場の整備だけでなく「Photoくん!保険も勉強しよう!」と、社長に言われた。何もわからずやらされたのだが、これが果てしなく、「モヤモヤ」「イライラ」したので、辞めた。自分、「何がしたいんだろう?」と悩んだ、18歳の後半だった。ハローワークに通い、帰りに自衛隊に誘われる。断り続けること数日、やっと見つけたのは、「トラックの運転手」だった。とりあえず、お金もらえるし、運転できるし、当時は、普通免許で四トンまで乗れたので安易な気持ちでトラック野郎人生のスタートだ。

トラック野郎人生スタート!

最初に、乗ったのが、三菱ふそうの3トンの平ボディ。これに乗ってから人生が変わった。「トラックの運転手って稼げる」と思えたのだ。当時は、時間外労働とか「430休憩って何ですか?」って時代だったので、昼勤夜勤2交代の荷物を一人一台のトラックで24時間回す。寝るのはトラックの中で、しかも、帰るのは週末だけという生活とかしている先輩なんて腐るほどいた。実際私もそっち側だった。

このような生活を数年続け、3トン4トンと車も大きくなった。したがって、年収も上がった。さらに、世の中バブルの最盛期だ。運ぶ荷物も仕事も腐る程あった頃、21歳の大型免許が取れる!となった月に試験場で大型免許を取得する。

長女誕生

26歳のとき人生の流れに乗って結婚をする。当時の仕事は、朝3時に起きて大企業の送迎バスの運転手をする。そして、送迎が終わると大型トラックに乗り換え、港の工場へ移動する。それが終わると、夕方と夜の送迎バスの大型バスに乗り換える。したがって、仕事が全て終わり家に帰るのは、21時だった。飯食って寝ての繰り返しの毎日か続くなか、当時の年収は、800万ぐらいあったので、マンションを購入する。29歳のとき長女が誕生した。そんな一見幸せそうな生活の中、勤めていた運送会社の社長から倒産しそうだと相談される。

運送会社倒産

倒産は、かなり前からなんとなくわかっていたのだが、最後の3人になるまで勤めた。当時の自分は、現状を直視できなかったのか、それとも単なる馬鹿だったのか、会社を愛していたのか、きっと、夢から醒めたくなかったのだろう。倒産=無職=お金なくなる=マンションの借金その他の借金が返せないとなる。このことにより、先に辞めた先輩を頼り食品の長距離輸送専門の運送屋へ転職する。長距離のトラックドライバーといえば「雲介」である。

長距離輸送は、倒産した会社でもやっていたので慣れていた。しかし、当時の借金を返す為に選択した仕事は、365日帰れない仕事だ。それにより、西から東、東から南、南から北と、日本全国走り回った。家は、365日トラックの寝台である。飯は、借金があるので、朝昼晩カップ麺とか「何も食べない」とかの選択だった。

365日帰らない私

年収800万の生活を忘れられない妻と、それを返すのに家に帰らない私。温度差は、確実に、お互いから愛を奪った。365日帰らない私。本当は、帰ろうと思えば帰れた。しかし、現実を見たくなかった。そう、雲介の生活が楽しかったのだ。この頃から、逃げる生活が始る。

現実から、借金から、妻から、娘から、自分からも逃げる日々。トラックを止めカーテンを閉めれば仕事終わり、安い焼酎を酔っ払うまで飲んで寝るという毎日が3年続いた。そのとき、親が病気になったと聞くのだが、見舞いにも行かない自分がいた。もう、いいかげん自分が嫌になりトラックのブレーキを踏むのも面倒になっていた頃、妻が、自己破産したとの連絡を他人から聞いたのだ。

コンスタンティン

荷物を満載積んで一日600キロから700キロをひたすら走る。労働時間は待機時間も含めると16時間から20時間であり、12時間ぐらい平均走りっぱなしだ。したがって、走りながらできる映画観賞が趣味になる。止まってカーテンを閉める。そして、ブログを書きながら呑むのが日課であり蔵(倉庫)で寝れる時は、「安心して酔っ払う」といった毎日を約10年続けた。

髪も伸び、髭も伸び、自分が自分で無いような、正直そんなこと、どうでも良いぐらい俗世間から離れた生活をしてました。「稼いだ金は全部渡したし・・・」「ここまできたら逃げれるところまで逃げよう」って、感じだったと思う。その時見た映画が、マトリックスなどで有名な、キアヌ・リーブス主演の「コンスタンティン」主役が最後自己犠牲し天国へ行くといった感じの話なのだが、この「自己犠牲って!素敵!」だと、当時の馬鹿な私はドキドキしたのだ。単純に、今までの罪も全部帳消しにしてもらえるかもしれないと解釈したのだと思う。

すみません・・・3分では、読めませんね・・・
ここから先も長いので、お暇な時にでも読んでくださると幸いです。

雪国暮らし

長引いた離婚調停も終わり、当時から私の心配をしていてくれた友達でもあり恋人でもあった、今の妻の母親と一緒に暮らすという選択をする。

初めて家を見た時、「三階建なの?」と質問をする。「一階に見える部分は、普通の家の縁の下で、あれの上まで雪が来るよ?」と答えが返ってきた。その時は、ピンとこなかったのだが、

雪国の画像

一晩で、これぐらいは普通なんですよ・・・

この雪を体験した時ようやく理解した。これにより、相方の母親が「一人では不安で暮らせない」と言っていたこともうなずける。

雪国に来てからトラックで行くことができなかった道を走るため、乗用車から軽バンに乗り換え、施設で引き取り手のいなかった老犬ライムと一緒に「おっさん犬と二人旅」をスタートした。しかし、このとき歩むべき道がまったく見えなかったのだ。文字にすると一見楽しそうに見える「おっさん犬と二人旅」だが、実際は、そんなに楽しくなかった。そして、自由ではなかった。

アルコール依存症

「楽しいことしてたら」「長距離のトラックの運転手辞めたら」「環境が変わったら」と、ずっと考えないようにしてきた。「お酒をやめられない自分」酒が抜けると、手が震えるようになり、自分では、飲酒が制御できないのだ。今思い出すと、完全にアル中だった。ふりかえると、運転手辞めたのも、【運行前アルコールチェック】これです。365日滅多に車庫に戻らない長距離の運転手だったので普段はないのだが、蔵(倉庫)が荷を降ろす前に運転手一人一人チェックするのだ。「ひっかかると荷主から社長まで皆に迷惑がかかるから・・・」なんて、かっこいいこと書きたかった。しかし本当は、ただただ、「酒を制御できない自分」が怖かっただけだ。

雪国に来て、制御できない自分の震える手を見ながら「この先どうなるんだろう・・?」と、不安を消すため、また酒を飲むのだ。

病院通い

アルコール依存症の病院に通った。精神科の病院も通った。脳内科も勧められ検査してもらった。いろいろ行って、いっぱい泣いて叫んでぶちまけた。しかし、誰一人、答えをくれなかった。これにより、自分の中で結論が出た。「自分が本気でやめたい!って、思わないとやめられない!」この時、本気で死を意識して涙が止まらなかった。そして、不安で気が狂いそうだった。

やめないとこの先の人生はないと本気で思えた。今までの人生は、酒に楽しませてもらったが、これからの人生は、「お酒という友達と別れ」一人で楽しめる人間になりたいと思った瞬間でした。

自己流アルコール依存症からの脱出

とりあえず毎晩飲んでいたサントリー角と4リッターの焼酎をやめて、ビールに変更した。一年間ビールだけの飲酒を保った。しかし、自分に甘いのは相変わらずなので飲めるときは、朝から飲んでました。

ふと、スーパーで目にした「ノンアルコールビール」試してみる。すると、飲みはじめたら一週間ノンアルコールで我慢できたのだ。しかし、その次の週から、幻覚が見えるようになる。それにより不眠の毎日が繰り返された。汗が異常に出て、体が寒いのか暑いのかわからなくなる。しかし、この時とても辛かったが「あ!俺やめるために頑張ってる」と自分が自分のために頑張っているのが嬉しかったのだ。この時の夜、やったことは「ノンアルコールビールを多量に買ってきて飲みたくなったら呑む!」「ノンアルコールビールで、自分の脳味噌を騙してやろう!」といった作戦である。

そのような夜が、半年ぐらい続いた。今思うと、ほとんど寝たのか寝てないのかわからない夜だったと思う。しかし、いつの間にか、普通に寝られるようになる。「ノンアルコールビールで禁酒は無理」だと言われていたが、半年ノンアルコールビールで持ち堪えたのだ。

ノンアルコールビール依存症

トラックの運転手のとき、借金返す為タバコやめた時がある。やめ方は、とりあえず代わりのものに依存する。といった方法を取るのだが、その依存先が、「爪楊枝」だ。禁煙は、元々そんなにタバコ好きではなかったのに吸っていたので、すぐにやめられた。しかし、爪楊枝は「噛んでいる時の歯を食いしばる感」が気持ちいいのだ。これにより、爪楊枝依存症をやめるのに三年かかった。このことにより、3年間ノンアルコールビールを飲み続けた結果ノンアルコールビール依存症になる。これではいけないと、ノンアルコールビールをやめるために、コカコーラ依存症になった。しかし、コカコーラ依存症はすぐに治る。

酒をやめて、今年で6年目となる。今まで、「お酒」には凄く助けてもらったし「ありがとう」しか言葉がないです。しかしながら、「今は、君がいなくても生きていけるから大丈夫だよ」「今まで世話になったね!本当に、ありがとう!」と、毎日思ってる。そして、感謝してる。

今、心から思うことは、【自由とは、人や物に依存しないこと】気がつくのに、55年かかりました。

ありがとう

「お酒」をやめてから、やりたかったことを全部やっている。ここ数年の自分が、自分でもちょっと怖いぐらいだ。やってみたかった40ftを引っ張るトレーラーの仕事もできたし、いろんなことに気がついた10年だったと思う。

ほとんどのことは、「感謝」することで「ありがとう」に変わるってこと、一番は、「家族という、守るものができたってこと」また、長距離の仕事に戻れば稼げるのだが、私が家族と毎日一緒に暮らしたいのだ。犬がいて猫がいて、ニワトリがコケコケ鳴いて、上で婆さんの足音がして、夕方には、妻が帰って来る前に、晩飯を用意する。「当たり前が奇跡なんだよ」って、誰かが言ってたけど本当だ。

最後まで読んでいただき・・・

簡単ですが、これが私です。

お忙しい中、私のプロフィールを最後まで読んでいただき心より感謝します。ありがとうございました。