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佐渡の空気は、海の匂いに少しだけ土の温度が混ざっていた。
フェリーの鉄の音がまだ耳の奥に残っている。
BAJACOのサイドスタンドを立てると、足裏に島の硬さが伝わってきた。
旅の一日が、また静かに始まる。
「単気筒の衝動|XLR250BAJAと私の物語」

第六話:たんぽぽの鍋、雨のふた
自販機のモーターがうなる。薄い雲の明るさが舗道の白線をやわらかく照らし、海からの湿り気が袖に張りつく。小木港を出てほどなく、〈たんぽぽ〉という名の小さなスーパーに出会った。BAJACOを自販機と歩道のあいだに置き、ハンドルをそっと正面に合わせてから、扉を押した。
中は、ちいさい。けれど、必要なものが整っている。玉ねぎ、オリーブオイル、塩と胡椒、鶏肉、そして赤いトマト。レジのスキャナの電子音が、島の朝に似合わないほどきっぱりと鳴って、袋の口をねじる私の手に、ひとつ作法を教えてくるようだった。
無料の野営場に着くころ、空の機嫌が変わった。風が先に来て、雨が後から追ってくる気配。フライシートを地面に広げ、ペグの角度を確かめてから一本ずつ打ち込む。張り綱を少しだけ緩め、呼吸を合わせるようにテンションを取る。「待って」と空に願いながら、最後のループを留めた瞬間、BAJACOから荷を運び込む手が止まるのと同時に、幕に雨粒が走った。
テントに当たる音が増えていく。MSRのバーナーに火をつけ、アルミの丸いシートを蓋に見立てて、小さな台所をつくる。オリーブオイルに玉ねぎを沈め、透きとおるまで木べらで寄せる。甘さが立ったところへ鶏肉を落として油を移し、米を入れてさらさらに馴染ませる。そこへ刻んだトマトと短いソーセージ。強火にして、鍋底がパチパチと喋りだしたら、水をひとすじ。
塩多め、胡椒多め。酒飲みの手癖が出る。誰に出すでもない、自分のための具合だから、これでいい。中火に落として、蓋を少しずらす。湯気が、夜の残り香のようにテントの天井へ擦れていく。
やがて火を止める。米がふくらんで、トマトの赤が静かに油に溶ける。スプーンでひとかき、口に運ぶ。外は四月の雨、内は湯気の島。熱が舌にやさしく広がって、さっきの風が遠い出来事のようになる。佐渡一日目の鍋は、誰の拍手もいらない味だった。
食器を水でぬぐい、火元を確かめる。シートの隅を指で撫でて、道具をひとつずつ元の場所へ戻す。
幕を打つ雨は、少しだけ粒の数を減らした気がした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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