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海を離れるたび、静けさのかたちが少しずつ変わっていく。
風は背中を押すでもなく、ただ流れていく。
エンジンの鼓動が遠のくたびに、時間が音をひとつ手放していく。
その先に、まだ見ぬ景色が待っている気がした。
「単気筒の衝動|XLR250BAJAと私の物語」

第十四話:晴れ間と長靴の不在
波の寄せる音が薄く、空は澄んでいた。光は真上より少し斜め、ミラーの端に白い筋を置く。
けれど山側から、冷たい風が段になって降りてくる。袖口の内側がひやりとし、呼気がシールドの下で浅くほどける。海には夫婦岩。あの二つの岩が、今日の輪郭を黙って決める。
沢崎鼻へ、とナビを入れる。目的地の名を音にせず、親指で決定のボタンを押す。サイドスタンドを上げ、ギアを一段落とし、キャブの呼吸に合わせて右手をほんの少し戻す。相川は素通りだ、とだけ胸でつぶやき、島の速度に身を合わせる。「トコトコ」と、膝に集まる熱が規則をつくる。
真野の海岸へ出ると、晴天の上に、山のほうから押された雲の影が広がっていた。光はまだ強いが、風の層が違う。ブーツの底で感触を確かめるようにステップに体重を置き直し、一度停めて、長靴に履き替えよう、と腰を浮かせる。ない。ボックスのどこを探してもなく、そもそもお家に忘れてきた。笑って、肩をひとつだけ落とす。
濡れたら乾かそう。順番を変えずにいれば、大抵は戻る。工具袋は左、貴重品は内ポケット、雨具は入口側——頭の中で並べ直す。ジャケットの上にレインの袖を通すか迷い、風の匂いを一口吸ってやめる。濡れるなら、今日はそういう日だ。BAJACOのタンクを軽く叩き、私はうなずく。
国道を外れ、海に向かって細い道を落としていく。家々の壁が塩で白く、庭先の網が風に鳴る。
港町の角で、猫がこちらを一度だけ見た気がして、速度を少しだけ緩めた。路肩の砂がミラーの端で鈍く光り、排気の音が背中のほうへ薄まっていく。四月十日、二日目。空はまだ明るいが、湿りの気配が混ざる。
やがて、海が道のすぐ脇まで近づいてくる。波の白が砕け、風の冷たさが膝から上がる。私はシールドを一段だけ上げ、息を混ぜる。忘れ物は、今日の速度を決める合図みたいなものだ、と断言せずに思う。濡れたら乾かす、そのあいだに、島の呼吸にもう少し寄り添える。クラッチレバーのアルミが指に冷えを移し、右手をほんのわずか多めに回す。
布の擦れる音が一度だけして、港の気配が背中で小さく遠のいた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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