「単気筒の衝動|XLR250BAJAと私の物語」第十六話:灯のほうへ、湯のほうへ

「単気筒の衝動|XLR250BAJAと私の物語」第十六話:灯のほうへ、湯のほうへ BAJA
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海の匂いが、まだ冬のかけらを含んでいた。

潮風は頬を撫でるたび、冷たさよりも記憶を残していく。

雹が過ぎた空の下、エンジンの音だけが確かなものとして続いていた。

その先に灯が見えたとき、私は湯のぬくもりを思い出した。

「単気筒の衝動|XLR250BAJAと私の物語」

釣具屋の前のBAJACOと私

第十六話:灯のほうへ、湯のほうへ

 風が層になって耳を削り、視界の端で白いものがはじける。灯台の明滅だけが乱れた海面に規則を与え、私はその点滅とBAJACOの鼓動を同じ拍に合わせる。四月十日、早春の午後、鉛の気配はまだ抜けない。

左手はクラッチを守らねばならない。指の感覚が抜けていく前に、シリンダーヘッドへ左手、つぎに右手。交互に皮膚の奥へBAJACOの心臓の温度を借り、またハンドルへ戻す。雨具の袖はベルクロを指一本ぶん残して留めたはずなのに、冷たさは躊躇なく縫い目から忍び込む。ブーツの中は、ぐずぐず。ステップに置いた土踏まずだけが、まだ足の所在を覚えている。

荒れの中を灯台で方角を読み、小木の表示を拾う。港の輪郭がふいに開けた瞬間、胸の奥で何かがほどけ、ヘルメットの内側でこがね丸の名がひとりでに広がる。声に出せば軽くなるのが惜しくて、喉の奥で転がしてから飲み込む。岸壁のコンクリートに打ち返す波の音が一段低くなり、私はBAJACOのタンクを小さく叩く。

通りの角に釣り餌屋。寒さは相変わらずなのに、なぜか足が止まる。帰ったら竿を出そう、冷えきった今の私にはまるで届かない予定を、ポケットの内側にそっと差し込む。郵便局では封筒と切手だけを買う。指先がまだ濡れているので、台の端で紙の角を整え、熊本行きの宛先を頭の中でなぞる。今日撮ったフィルムは、まだジャケットの奥でビニール袋に包まれる。送るのは、もう少し体温が戻ってからにしよう。

海の見える湯の建物に寄る。受付で小銭を出すと、金属の冷たさが改めて指に帰ってくる。脱衣所の床はわずかにぬめり、タオルの端から塩の匂いが立つ。湯に沈む前、レインの裾を絞っておく。熱が皮膚の表をなぞり、芯へ降りていく。耳の奥で暴風の名残がほどけ、息がひとつ深く落ちる。

湯から上がる頃、空はまだ鉛色のまま。けれど視界の粒立ちは静まり、クラッチの遊びを指一本ぶんだけ確かめる余裕が戻る。工具袋は左、貴重品は内側、雨具は入口側——順番は変えない。シートを軽く叩いて礼をひとつ。

港の向こうで、船の低いエンジンが、遠くなっていった。
佐渡島の地図:経路と時間

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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