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曇りの朝、ガラス戸の取っ手だけが白い。
長靴の口に冷気、ポケットには折り目のついた地図。
金網の向こうで、白い気配が一度だけ揺れた。
届かない距離ごと、今日は静かに受け入れて歩き出す。
「単気筒の衝動|XLR250BAJAと私の物語」

第二十三話:長靴と朱鷺の距離
風が入口の旗を薄く揺らし、曇った朝の光がガラス戸の取っ手だけを白くする。AM9:51、トキの森公園。ガラスに映った自分の足もとを見て、少し笑う。左足のかかとを地面につけ、爪先を上に向けた長靴がかわいい。ブーツより出番が増えたせいか、最近はこの野暮ったさが妙にしっくりくる。脱ぎ履きが簡単で、内側がほんのり温かい。面倒くさがりの癖に、こういうところだけ手際がいい。
入園口で、パンフレットを受け取る。おね〜さんは熱心にトキの歴史を語ってくれた。紙の角が指に軽く当たり、湿り気の少ない早春の空気に紙の匂いが混ざる。中に進むとサドッキー。三頭身の名前が頭の中でくるくる回り、私は小さく「ええやん」とだけ呟く。抱きつきたい衝動を、目を瞑って妄想の空間で済ませ、少しだけスキップする。
キンさんの剥製。光の角度で表情が変わり、私の立ち位置が半歩ずれるたび、悲しげにも、ただの静けさにも見える。当時の人も、トキも、ただそこで生きていただけだ。人は米を増やそうとして農薬を撒き、土の底から餌が薄くなり、鳥は遠のく。善悪を言い切るほど私は賢くない。剥製の前で、呼吸だけ合わせて立つ。
隣にミドリさん。繁殖が進んだいま、もし空に朱鷺が増えたとして、田の苗をついばめばニュースになるのだろう。人はたいてい、やりすぎてから戻り方を学ぶ。戻すことも、また過剰になることもある。少し笑って、少しだけ眉を寄せる。剥製は何も言わないが、「ここで立ち止まっていけ」と促された気がした。
屋外へ出る。大きな大きなケージ。50mmのレンズでは点に近い距離。金網の目は細かく、支柱の影が地面に細い縞を落とす。風が柵を撫でるたび、かすかな金属音がひとつ鳴った。物理の遠さの向こうに、まだ測りかねる人と鳥の間合いがうっすら漂う。
パンフの折り目をもう一度なぞって、地図の端を指で軽く折り返す。ここから左回りに行こう、と声に出さずに決める。長靴の口にかかる朝の冷気は薄く、内側の温かさが脛にまとわりつく。砂利を踏むたび、ゴム底が乾いた音を落とし、そのたび空気が一粒ぶん静かになった。
遠くに白い羽根の気配。網越しの光がちらりと揺れて、胸の奥で呼吸がひとつ深くなる。届かないまま見守る距離を、とりあえず今日は受け入れてみた。パンフを二つ折りにしてポケットへ滑らせ、肩の力を少し抜く。園内放送が一段だけ小さくなった気がする。
私は最初の角へ、足音を控えめに連れていく。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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